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昭和48年の夏、夏休みが終わり上京するとき出雲市発京都行の夜行に乗りました。もう40年以上の年月が過ぎましたが、旧型客車に一晩揺られ、深夜の駅に長時間停車したときの風景などいろんな場面を覚えています。いろいろな意味で、人生の生き方を決めたとても大切な経験でした。貴重な画像をありがとうございます。
メッセージありがとうございます。私も出雲市発京都行の夜行列車は、乗りました。私は、ユースホステルを使っての山陰の旅行の帰りでした。みなそれぞれ、生き方は違いますが、色んな人が色んな思いで旧型客車に一晩揺られていたのですね。
懐かしい映像ありがとうございます。私は元JNR時代(客専)通称カレ千として乗務員をしていました。主に鳥取~米子.出雲市.浜田まで乗務していました。とくに544列車の客車最後の日50系客車でさよなら列車でした。行き先も当初東舞鶴行きだと記憶しています。のんびりと無線機で発車合図を送っていたのがよみがえりました。
へぇー乗務員さんでしたか?やはり、乗務員の立場だと、旧型客車よりも50系の方が良いでしょうね。私は、子どものころのこの旧型客車が忘れられなくて、必死に撮影しました。今は、廃駅も多く浜坂と鳥取間は、本数も少なく、特急も浜坂折り返しで、もう鉄道の時代は終わってしまったみたいですね。
'85年~’86年にもう残り少なっていた旧客をおいかけて、山陰線詣でを繰り返していた頃を思い出しました。あれから、もう四半世紀が過ぎ、まだ若いと思っていたのに気がついたら、齢五十を過ぎ、すっかりおじさんになってしまいました。貴重な動画を見せていただき、ありがとうございました。
メッセージありがとうございます。私も同じです。まだ若と思っています。この動画を撮影して、もうこんなに月日が立つなんて時の流れは速いものです。
下市駅が実家の最寄り駅でもあり、非常に懐かしいです。昔は下市と米子間の各停がありましたが、今は快速も通過する駅になってしまいました。私も高校生までは汽車に乗ってましたが、今は山陰道などもできて車を利用してしまっています。懐かしい映像と音をありがとうございます。
メッセージありがとうございます。今は、車の方が便利ですからね。道路は、どんどん進化するのに、鉄道は、明治が大正か分かりませんが、開通当時のまま。これじゃー、時代に遅れてしまって、利用できませんよね。
昔、こちらの筑豊本線でも、DD51牽引旧型客車が、若松ー原田 で走っておりました。駅で停車すると、スチーム暖房の湯気が客車から立ち上り、風情があったのを記憶しています。また、すりガラスの電球照明も最高にすてきでした。当時のことをおもいだしました。
メッセージありがとうございます。昔。そう、もう昔話になってしまったのですね。でも、今の鉄道は、今の時代にそぐわなくなりつつあると思います。車両は、どんどんすぴーどを出せる車両になってきている反面、線路は昔のまま。道路は、バイパスや高速がどんどんできつ一方、鉄道は昔のまま。鉄道も、もっと高速で走れるようにしてほしいですね。今の田舎では、車で行った方が速い・・・のです。
そうですね。僕も、日本の鉄道は、考え方を変えることが大切だと思います。鉄道は人々が利用するものであるがゆえに、人にとの今と昔のライフスタイルなどを考察して、鉄道システムを基本から構築しなおすことが肝要かもですね。 みんな正社員で、みんな帰宅したらTVを見ていて、昼間に働いているひとが多くて、趣味の種類も少なかった。そういう昔にくらべて、今の人の行動は実に多種多様、活動する時間も、収入も働き方への考え方さえも、異なります。 社会そのものが、すでに昔とは違う線路の上を走っている気がします。鉄道システムに、いろんなベクトルを考えてみて多彩なサービスおwやってみてはどうなのかと思います。 運行時間帯、軽量高速化、低速で充実娯楽化、小型新型路線、、、 車では絶対に味わえない魅力が鉄道にはありますよね。車で行くと日常の先にある単なる遠い場所なのが、鉄道で行って駅に降りたらなぜか異次元に来たような感覚が、僕には昔からあります。鉄道も魅力に触れたくても、触れれない悲しき日常。 特に路面電車には憧れがあります。あれが復活してほしいです。電車は架線の設置に後退な感じを受けますから、水素やハイブリットで走る路面列車なるものなどが、できたらステキだなって思いますね。そして都市部から車を減らし都市中心部の外周に車のパーキングや貸し自転車場をつくるなど、、地下鉄は外が見えないので単に高速移動しているみたいでキライです。あの、人工的な感じが極度にする、音が、すきではありません。長くなりました。鉄道大好きです。
良い絵ですね 何時も懐かしく拝見してます まったりとした時代を思い返しました
メッセージありがとうございます。今の時代は、すごく綺麗な映像で録画できるけど、この時代は、これが精いっぱいだったようです。そんな時代の列車がこのまったりとした時代なのかも知れませんね。
たいへんご丁寧なお返事をいただきありがとうございました。鈍行列車もいいですね。香住へ行くのに『まつかぜ』はもちろんでしたが『はまかぜ』にも、特急はなかなか乗せてもらえず急行ばかりでしたので、小学校高学年の頃になると、そののんびりとした車窓と、鈍行の風情を楽しむのに、夏休みに2度、冬休みに1度、鈍行列車で香住まで行ったことがありました。時代的にも1982年・83年頃でしたので、ちょうどこちらの動画の頃と同じ頃でした。私自身、子どもの頃からわりとノスタルジックなところがあり、寝台列車で言うと14系や24系よりもだんぜん20系のほうが好きでしたし、また10系のオロネ、オロネフ、オロハネといった寝台車両のほうが好きな、ちょっと変わった鉄道好きの子どもでして(苦笑)それだけに、旧客も茶色、いわゆる「ぶどう色」の車両のほうが好きで、わざとその車両に乗って行っていました。というのも、青色のほうの旧客は車内がプラスチック製でしょうか、化粧板なのと電気が蛍光灯であるのに対し、ぶどう色の旧客のほうは、ニス塗の木のまま、電気も白熱灯で、あの何とも言えないぼわ~~んとした明るさと温かな風情がたまらなかったので。先日、なくなった弁天町の『交通科学館(交通科学博物館)』にあった「マイテ49」や「マロネフ59」への憧れや、オリエント急行のような、いわゆる「ニス塗木目調」の車内が最も好きでしたので、それにより近いぶどう色の旧客のほうを選んで乗っていました。昔のこの旧客時代というと、福知山しかり、和田山しかり、豊岡しかり、停車すると、上下の列車の連絡や、後続の急行・特急の追い越しで、停車時間が20分・30分ってことが日常でしたし、和田山駅なんかのホームで売っている駅そば(和田山そばだったでしょうか、夜久野そばだったでしょうか)を買って、列車の中で、小学生ひとりでズルズル食べていました。今は、ほとんどで発泡スチロールの器(鉢)に変わったみたいですが、当時は確か・・・薄っぺらい、ぺらっぺらのプラスチックでできていたように記憶しているのですが、持つと熱くて、んで冷めるのが早くて(苦笑)いろいろそういう子どもの頃を今回も思い出しながら楽しませていただきました。
jxfds369 さん メッセージありがとうございます。私も、旧型客車は、子どもの頃、鳥取に住んでいる時は、DF50牽引の普通列車で時々父親に乗せてもらった覚えがあります。また、姫新線の本竜野に引っ越した頃は、C11などの、SL牽引の旧型客車で、茶色の客車しか、乗る事が出来ませんでした。その反動もあって、中が蛍光灯の急行や気動車が当時子どもの頃は、好きでした。その後、小学校の高学年になった時に奈良の近鉄沿線に引っ越し、旧型客車はおろか、国鉄とは無縁の生活になってしまったのです。どんな電車も、全部ロングシート。味気ないと言えば、味気ないのですが、その中でも、微妙な違いのある電車にやっぱり興味を抱いていました。そして、高校になって、忘れかけていた鳥取へ旅行に行った時、再び旧型客車に乗ったのです。子どもの頃は、こんな白熱電球の木の車内よりも、蛍光灯の近代的な車内の車両に乗りたいと思っていたが、高校時代に再び乗った旧型客車は、また別の思いがありました。それは、自分が子どもの頃に乗っていた列車。それが、まだこうやって走っている。近鉄の近代的な電車は、走る時代に、この旧型客車も、同じ時代に走っている。それが、とっても、もう何時消えてもおかしくない。って思ったのです。ですから、私は、高校時代には、テープレコーダーで音を録音しに行ったり、社会人になってビデオを買うなり、慌てて、この旧型客車を撮影に行ったのです。その時の、気持ちは、「まだ、走ってて欲しい」との気持ちでいっぱいでした。そして、撮影したのが、この映像なのです。また、最寄りの駅での20分や30分の停車は、荷物車や、郵便車の荷物の積み下ろしなんかの、時間も必要だったからかも知れませんね。
今では鈍行の客車列車に乗りたくても乗れなくなりました。最後に12系客車の鈍行に乗車したのは1999年か2000年に由布院を訪れた際に久大線で乗ったのが最後です。1984年当時の山陰線の客車列車は約8両もつないでいたのですね。今ではワンマン運転で2両編成の気動車の運行のみ、73年に日本を離れてからは余り鉄道の旅も出来なくなり、この動画を見る度に、もう少し山陰線の旅をしておきたかったと思います。
Emilio Dandy さん メッセージありがとうございます。本当にそうですね。今は乗りたくても乗れない。私は、高校時代に、この旧型客車の雰囲気を何とか残せないかとテープレコーダーで走行音を録音しました。鳥取から京都までの旧型客車の音なんですが、なにぶん画像がないので、つまらないですね。いつか、画像を撮影し、現在の車窓風景ですが、音とミックスしてみたいと思っています。当時の山陰本線の旧型客車は、10輌つないだ列車もありました。昔はDF50牽引があったのです。今は、どちらでお住まいですか?イタリアのテルミニー駅で撮影した鉄道なら動画が少しありますよ。ヨーロッパってすごいですね、鉄道や車で外国へ行けるのだから。海外旅行って言う感覚が全然違いますね。
国鉄時代の鉄道ファン DF50型DL、私が1965年に家族旅行で鳥取砂丘を訪れた時は客車急行も上記のDLが牽引していました。私はDD51よりもDF50のスタイルの方が好きです。鈍行列車はSLが牽引していたと思います。今は鉄道とは無縁のホノルルに住んでいます。
Emilio Dandy さん メッセージありがとうございます。私もDD51よりもDF50の方が好きです。客車急行なんて懐かしいですね。あの頃は、たぶん普通列車はオハ61やオハ35で、急行列車はスハ43と、きちんと使い分けされていたように思います。子どもなりにも、同じ茶色の客車でも、急行列車を見るとさすが急行!って思いました。私が、山陰本線で家族で出雲大社へ行った時は、途中までDF50で途中からSLに機関車を交換した覚えがあります。また、DF50とSLとが入り混じって走っていたようにも思います。
山陰線に旧型客車がこんなに走っていて、浜田~大阪などの長距離列車が走っていたとは、今となっては信じられないですね。YHでの出会いも素晴らしいですね。
+kou naka さん メッセージありがとうございます。ほんと、今となっては信じられないです。いや、当時でも、東京や大阪で大手私鉄などの綺麗な車両が数分毎にバンバン走っていた時代に、このような列車が走っていたと言うこと自体信じられませんでした。当時、ここ山陰に来たら、子どもの頃にタイムスリップした懐かしい不思議な時間に浸る事が出来たのでした。
懐かしいですね。浜田住みですが、一度大阪行きの鈍行に乗って大阪まで行ってみたかったです。大人になった頃にはとっくに廃止されてました。今は味気ないステンレス製の車両になってしまいました。
メッセージありがとうございます。今は、ステンレス製の車輛ですか?北陸もそうですね。でも、このステンレス製が、また未来には別の材質に変わるかも知れませんね。プラスチックとか、カーボンファイバーとか。
豊岡駅で忘れ物のお届けご苦労様でした。昔は、のんびりしてましたね。。我が家も海に行って帰りがけに浮輪を汽車に忘れてしまったら、ちゃんと豊岡駅に届けられていました。。。宮津線乗換で賑わっていた時代が懐かしいです。。
メッセージありがつございます。へ~~~~~!やっぱり豊岡駅に忘れた浮輪が届けられていたのですか?偶然ですね。宮津線乗り換えで賑わっていたのですか?撮影は、マイカーで行くのであまり駅の中の様子は分かりませんが、でも昔は鉄道利用者は、結構多かったと思います。
国鉄時代の鉄道ファン 様 但馬の山陰本線で当時賑わっていたのは豊岡駅、和田山駅です。宮津線方面は鈍行は豊岡で乗換でした。丹後方面は春はチューリップ畑、夏は海と民宿で都会からも観光客がやってきて賑やかでした。(「チューリップ号の思い出」で検索してみてくださいKTRのページに行きます)当時、学生の通学ラッシュ以前の早朝の列車は「浜のおばさん」と呼ばれる魚の行商の方が多数利用されていて(海沿いの駅からその日売る、魚担いで豊岡方面行の汽車に乗り込む!)賑わっていました。和田山駅は播但線乗換(姫路方面)ですから関西の方ではおなじみですね。学生さんの通学や仕事で姫路方面と行き来してる人でワイワイ大賑わいでした。乗換待ち(結構長かった10分~1時間)がまた、楽しいんですよね。駅のそば食べたり、売店でガム買ったり、他の列車眺めたり。。他の乗り換え客の大阪弁聞いて「へぇ都会の人ってテレビと同じ~」とか思って弟と青と黄色の樹脂のベンチにそわそわ座っていました。(ホームのベンチは豊岡は先に樹脂になった、和田山は最後まで木の格子だったはず)
山陰本線は素敵ですねぇ。。変わって欲しくない素晴らしい風景です。。
メッセージありがとうございます山陰本線と言うと日本海が時々車窓に見える線路ですね。町は、どんどん変わってしまったけど、田舎はまだ川原に風景があるかもしれませんね。
旧客懐かしいですね。山陰線、よく旧客が走ってましたよね。扉が開きっ放しで。旧き良き時代です。こういう列車が復活してイベントで走行する機会があったら、また乗ってみたいものです。豊岡で再開できた女性が、この動画を見てくれたら良いのにな~と思いました。
メッセージありがとうございます。そうなんです。山陰本線は、昔はDF50が牽引していました。確か、最初は茶色で、次第に今の朱色と銀色の塗装に変わって行きました。DD54って言うのもありましたね。今は、大井川鉄道ですね。乗るんだったら。
総括制御してないと言う事は、初期のDD51もしくは、総括制御が無いDD 51だったかもしれませんね。貴重な映像ですね。財布も渡せられてよかったですね。
メッセージありがとうございます。詳しい事は良く分かりませんが、汽笛が2回なったので、アレ?ってな感じでした。初期のDD51は、総括制御できないのですか?その辺まで詳しく知らなかったのです。財布を忘れた人とは、本当にバッタリと会いました。まあ、大体の行先を話していて聞いていたから、乗換駅くらいは分かったので、それだけが救いでした。
かろうじてデッキ全開だった列車を経験してます。幼少期は最後尾の景色や機関車の連結部を走行中に母親の目を盗んで鑑賞していてメチャクチャ怒られていました。機関車の次位の客車に乗るなら「ねぇ、お母さん、僕は先頭の赤いヤツに乗りたい!」って言っていたそうです。電車、汽車、列車が区別できる時代ですね。
メッセージありがとうございます。幼少期ってどれくらいかな?私は、小学校の2年くらいでは、両親と一緒に満員で客室には入れなかったときは、デッキの一番後ろの扉のないところで親と一緒に線路を見ていました。 でも、私がそのころ住んでいたのは姫新線の本竜野で、山陽本線の電車がみな自動ドアでドアを閉めて走っているのに、自分の地元の汽車がドアーを開けっぱで走っているのがとってもいやで、人が居ないデッキなどは、ドアを閉めて回った事もありました。子どもの頃ってやはり新しいものにあこがれるのですね。当時東海道新幹線が開業した頃、姫新線はC11牽引の時速35km/hくらいでの汽車でした(笑)
懐かしいいですね。私も子供の頃 京都から福知山まで時々鈍行列車乗りました停車時間が長くて福知山までいくのに3時間ぐらい掛かったと思いますでもこの鈍行列車好きでした。旧型客車床が木でいかにも旅行してる感じでした、この間信越線の横川駅でレトロ碓氷見てきました。山陰線もう一度この鈍行列車走ってくれないかな臨時でもいいから乗りたいです
メッセージありがとうございます。私も、山陰本線の旧型客車が好きでした。と言うか、子どものころよく乗ったので、あの旧型客車に乗ると、なぜか子どもの頃にタイムスリップしたような気分になるのです。床が木、壁もニスを何重にも乗ってピカピカに光った真黒な木。天井は白熱電球。 もう山陰本線では、旧型客車は走ることはないでしょうね。動態保存されている車両も無いのでは。今は、旧型客車に乗ろうと思うと大井川鉄道に行くしかないのでは?
それが今や京都~福知山間が亀岡まで快速扱いで最速約1時間50分近くに。国鉄時代の約2時間30分~3時間のローアベレージが嘘のようです。
rhscm989 さん メッセージありがとうございます。都会は意外と時間短縮されつつあるのですね。田舎の方も、時間短縮されてきたとは言え、昔の旧型客車が走っていた時代は、逆に快速が走っていたのです。しかし、今は、ほとんどまあ、すべてと言ってもいいと思いますが、各駅停車なのです。そんなわけで、亀岡まで快速扱いと言うのは、うらやましいですね。
1984年(1984年) 1月22日に撮影された、冬の山陰路を走っていた、どん行列車の動画映像ですね、上手に撮影されておりますよ、国鉄(時代の鉄道ファンさん、気に入りましたよ、お見事です。
メッセージありがとうございます。この当時は、まだまだへたな撮り方でした。でも気に入ってもらえてうれしいです。
主さん、いい人ですね。
ありがとうございます。
餘部懐かしいです😊急行だいせん20系寝台で、いまはなき大社駅まで乗りました☺がまだ暗かったため走行音のみ😭
メッセージありがとうございます。20系のだいせん 私は乗ったことが無いのです。20系は、九州で急行日南でのりましたが、あのジョイント音って最高ですね。とっても静か、とっても軽やか。国鉄の気合の入った初のブルートレインですからね。
気動車以外にも50系や12系が普通に投入される中で旧型客車がよく残ってましたね。10系寝台車が最後まで残り12系と混結列車となり愛称もついた「山陰」とか日本最長距離の824列車とか話題は豊富だったと思います >山陰線
メッセージありがとうございます。50系や12系は、旧型客車と比べると全体的に台数が少なかったのかもしれません。旧型客車なんて、昔は全ての車輛が旧型客車で走っていて、輌数はとっても多かったのではないかと思います。今思えば10系客車と言うのが、今一不思議な存在ですね。旧型客車のような、新型客車でもないし、軽量客車と言っていますが・・・・・そして、寝台や、グリーン車の12系バージョンは出来なかったし、また、寝台は旧型客車から10系客車に早く移ってしまったし、考えてみれば、やはり旧型客車の台数が圧倒的に多かったのかもしれませんね。
毎度貴重な映像を有り難うございます。山陰本線、真冬に一度旧客ドン行乗りに行きました。78か79年だったと思います。当時高校生で一人旅でした。ところが、豪雪で、もう列車は忘れましたがどこかの駅で足止めをくらい、その旅は残念ながら中止となってしまいました。とにかくものすごい雪で列車の前後は埋まってしまい、いつ家(横浜市)に帰れるのか解らない状態で、車内では食料などが配布されました。蒸気暖房が暖かかったです。今となっては良い想い出ですが、もう一度行っておけば良かったと悔やまれます。
メッセージありがとうございます。山陰本線が雪で足止めになると言うと、多分56豪雪ではなかったのかなと思いますが、でも、私がビデオを買ったのも56豪雪の終わった春に買ったのです。でも、今の内装が鉄でできた車両なんかよりも当時の車内が木でできていて、蒸気暖房の車両って外がどんなに吹雪でも中は暖かい感じがしますね。私も、高校時代、テープレコーダーを持って、鳥取と京都の往復旧型客車での一人旅をしました。あの何とも言えない音、乗り心地がなんとも言えない癒される感じでした。
国鉄時代の鉄道ファン 様ご返信有り難うございます。私が足止めを食らったのは、54年あたりだったと思います。確か56豪雪の前にもちょっとした大雪があったんです。仰るとおり旧客の味わいは、今の車両には無いなんというか、筆舌に尽くしがたい物が有りましたよね。匂い、灯り、音、それらが醸し出す温もりと乗り心地。タイムマシンがあったなら、せめて1970年代に戻ってみたいです。
type4frank さん メッセージありがとうございます。タイムマシンか!大井川鉄道は、まだ旧型客車が走っているのでは・・・・・・54年あたりは、けっこう雪が降っていましたね。それに比べて、今は平野部ではもうほとんど雪が降りません。
鎧〜香住間は矢田川付近の踏切ですね!小学生の頃に行きました(*´ω`*)この余部鉄橋も、今はコンクリートに変わり、どんどん歴史は変わりますが、こうして昔の映像を見れる事に感謝しております(*゚▽゚)ノ
メッセージありがとうございます。私は、詳しい川の名前は分かりませんが、1984年の時代に、新幹線が走っている反面、ドアーが開けっ放しの旧型客車が走っていること自体、もう近いうちになくなってしまうだろうと、思い撮影しました。この当時、余部鉄橋が新しくなるような話はなかったと思いますが、何も思わず当たり前の風景を撮影しておいたのが、時が流れると、変わってしまったのですね。鉄道車両だけでなく、鉄橋も、風景も。
DD51の引く旧型がまだまだ頑張った時代いいなあ~
メッセージありがとうございますDD51よりも古い機関車が写せなかったのが残念です。音だけなら、あるのですが・・・・残念です。
暖房用の蒸気が郷愁をそそります。
メッセージありがとうございます。そうですね。山陰本線は、当時蒸気暖房で車庫から出てきた客車が駅で発車を待っている時にカチン カチン とドレンコックの音がなっていました。寒い冬、列車に乗って少し体も温まる。そんな旅を思い出します。
私は乗りましたよ。大阪から浜田行き 夜行鈍行でした。お金がない時代でした。
いえいえ、お金がない・・・・こんな列車に乗れるのは、時間に余裕がある人つまりタイムイズマネーと言う事で、別の意味で贅沢な旅をされたようですね。
最近は列車の前面展望等が気軽にRUclipsで観る事が出来るようになり有難い限りです。同じく鉄道好きでぴちぴちの都内育ちの夫が、『手動ドア?』『開けっ放しで走行するの?』←余りに不思議そうに云うので検索してて辿り着きました。自分はこの頃学生でまさにこの客車で豊岡迄列車通学していたものですから、拝見でき感激感涙( ´╥_╥`)。懐かしくて、アタリマエだった風景と音が脳裏に蘇えりました。ちなみに夫はかなり衝撃を受けた様子で、『まつかぜが博多迄長距離走ってたの?』とか、『トンネルが小さいよ?』だの、『下から煙が出てる!』(←水蒸気なのですが~(・з・)b。)等々、『あまりにも新鮮!』と云いながら食入る様に観ておりました。但馬地方は雨が多く冬ともなると午後の四時前には空が薄暗く、灰色の景色が多かったような、と、久し振りに想いだしています。いまでは貴重な映像を本当にありがとうございます。是非登録させていただき、他の動画も拝見したいと思います、宜しくお願い致します。おしまいになりましたが、国鉄時代の鉄道ファンさんのあたたかいお人柄、とても素敵です。餘部から豊岡迄かなりの距離がありますのにお届けになったのですね。忘れ物をされた女性もとても感謝されていたことでしょう。
龍々 (ryouryou) さん メッセージありがとうございます。こんな客車で通学されてた時代、都会では10輌編成の山手線のオール長椅子の電車が1分くらいの間隔で走っていましたね。都会では、本当に想像も付かない事、もうこれは東京から見ると、外国のような話に思えるのではないかと思います。 私は、小学校1年まで、鳥取に住んでいてこんな白熱電球の客車に、よく乗りました。たまには、白い蛍光灯の電気の付いた気動車に、乗りたいと親に行った事もあります。でも、鳥取を離れて、奈良に住むようになって、近鉄電車の長椅子の車両ばかりに乗るようになり、この白熱電球の旧型客車が忘れられなく、高校時代には、テープレコーダーを持って走行音を録音に行きました。そして、家庭用のビデオが普及し始めて、当時高価だったけど、ビデオカメラを買って、もう何時廃止になってもおかしくない旧型客車を撮影したのが、この映像です。今から思えば、ど素人の撮り方しているな!って思いました。ほんと、今のフルハイビジョンから比べると画質も悪く写っているだけなんですが、そんなに喜んでいただいてうれしいです。
鉄橋の真下の食堂で食った山ウドの味が忘れられないんですよ^^; 門司発福知山行なんてのもあった記憶がw
メッセージありがとうございます鉄橋の真下に食堂があるのですか?私は、撮影に夢中で知りませんでした。門司発福知山行などなど、長距離の普通列車がいっぱいありました。
本当に真下でしたからあの列車事故でなくなった可能性があります。当時まつかぜ1号狙いで城崎に泊まってから行きました。中学生当時、あの餘部の駅の階段をヒーフー言いながら上がった記憶がw(39年前っすw)
ここ最近は、昔の駅をモダンな駅にして、バイアフリーでエレベーターやエスカレーターを付けるのが当たり前になっていますが、新しい余部鉄橋が出来て、余部駅もリニューアルされたと思うのですが、エレベーターは、付いたのかな?そしたら、ヒーフー言いながら上がらなくても良いですね。
最後のヤボ用のエピソードが素敵ですね。携帯電話もないあの当時、離れた人とコンタクトをとるのは大変でした。相手の行動を予測し、先回りしたり。自分は刑事かと思いながら・・・。懐かしいです。
最後のヤボ用・・・・余部でほんの5分ほど喋っただけだったのですが、ほんと上手く出会う事が出来て良かったです。
旧客普通、大阪から江原まででも5時間以上かかりました。
メッセージありがとうございます昔から、急ぐ人は特急料金を払って特急に乗れ!って感じだったのかもね。それが、JRつまり民営化になって、増々加速して、出来るだけ特急に乗せて、儲けようと言う考えが強くなってきたように思います。
けいせんさん メッセージありがとうございます。昔は、手動ドアだったのです。映画で渥美清の急行列車って言う映画を見たことがあるのですが、あの映画でも20系のブルートレインも手動ドアだったように思います。自動ドアーが出始めたのは、東京の電車からではないでしょうか?まあ、不正乗車・・・・あったかも知れませんが、昔はそんな悪い事をする人もすくなかったのではないのかな? 総括制御は、運転手一人で全ての動力車のコントロールをする方式なのです。・・・・・・・って、それ普通じゃん!って言われそう。今は、そうなんですね。普通なんです。でも、昔は蒸気機関車で始まった時代は、重連なんかは、各機関車に機関士が乗っていて、それぞれ、自分の機関車の動力は自分で制御していたのです。それで、ノッチオン、ノッチオフなどの合図を汽笛の鳴らし方でやっていました。ここでは、機関車が2台、発車のときに別々に鳴らしていたので、1台1台に機関士が乗っていて、運転していたのかなって思ったのです。 まあ、気動車や電車では当たり前の時代なんですが、気動車も、昔は別々に運転手が運転していたそうです。 電気機関車なら同じ形式の機関車2台連結すれば、性能も同じなので、総括制御もしやすいでしょうけど、電気機関車と電車を連結して、電気機関車の運転手が電気機関車と電車のモーターを回す制御になると、結構高い制御技術が要ると思います。電気機関車と電車では、車輪の直径から性能から異なるのだから。でもそんな事を国鉄はやってのけるのですから、日本の鉄道ってすごいですね。 ただ、1つだけ残念な事は、線路の幅が狭い事ですね。
***** メッセージありがとうございます。電気機関車と電車を連結して、電気機関車の機関士がノッチを入れると電車のモーターも電気機関車のモーターを同時にまわるようにして、走っていたのが、信越本線の横川と軽井沢間の66.7パーミルの勾配区間です。普通の急行用電車は、165系って言う形式だったのですが、この電気機関車と電車を同時に制御できるようになっていた急行用電車が、169系なのです。協調運転用の電車です。特急用は、489系や189系が有名ですね。
いいお話だなあ。
48年のころが懐かしいありがとうございました貨物のころのつていたころうれし頃ほくわのりもがだいすき返信します
のつてい頃昔からの市川です
メッセージありがとうございます。乗り物が大好きと言う事は、飛行機もすきなのかな。
こんばんは‼︎こんな列車、もう二度と見られないのよね囧rz
そうですね。とにかくドアーが開けっ放しと言うのは、絶対出来ない時代ですからね。
人気機関車型?乗れる?審査にて黒字列車創作?四十万人よりファン様には、機関車型牽引客車と定期型?寝台列車増設は団体型車両在る列車?、しばらく後に営業です。
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@@HobbyVideos? さよなら話?にて?人気型?創作の話。
@@HobbyVideos廃車を?予想にて撮影を推薦。
乗りたい 鈍行列車 弁当買ってあの急須の形をしたプラスチックのお茶買って あれロウソク臭くてでも美味かった
メッセージありがとうございます。懐かしい雰囲気が目に浮かぶようです。プラスチックのお茶がまた、熱いのですよね。ふたが、コップになっていて。そんな時代もあったのですが、最近は、北陸本線の特急列車の車内販売が、なくなりました。駅での案内では、乗車前にあらかじめお買い求め願いますだって。ところで、駅弁は、どこから食べ始めますか?私は、ふたの裏に付いたご飯からです。
そうですね 私もふたの裏についたご飯粒からですね あれが何故かうまい 駅弁でうまいと思ったのはやっぱり横川駅のとうげの釜飯ですね
塩見幸司 さん メッセージありがとうございます。そうそう、あれが何故かうまいのですね。ふたの裏のご飯粒。横川の釜飯も撮影に行って食べました。釜を持って帰って使うのだが、火にかけると割れてしまうのです。あれは、何か物入れにするといいかもね。
好像台鐵內灣線普通車的回憶
謝謝你的留言現在不再有這樣的汽車了嗎?
昭和48年の夏、夏休みが終わり上京するとき出雲市発京都行の夜行に乗りました。
もう40年以上の年月が過ぎましたが、旧型客車に一晩揺られ、深夜の駅に長時間停車したときの風景などいろんな場面を覚えています。
いろいろな意味で、人生の生き方を決めたとても大切な経験でした。
貴重な画像をありがとうございます。
メッセージありがとうございます。
私も出雲市発京都行の夜行列車は、乗りました。
私は、ユースホステルを使っての山陰の旅行の帰りでした。
みなそれぞれ、生き方は違いますが、色んな人が色んな思いで旧型客車に一晩揺られていたのですね。
懐かしい映像ありがとうございます。私は元JNR時代(客専)通称カレ千として乗務員をしていました。主に鳥取~米子.出雲市.浜田まで乗務していました。とくに544列車の客車最後の日50系客車でさよなら列車でした。行き先も当初東舞鶴行きだと記憶しています。のんびりと無線機で発車合図を送っていたのがよみがえりました。
へぇー乗務員さんでしたか?やはり、乗務員の立場だと、旧型客車よりも50系の方が良いでしょうね。
私は、子どものころのこの旧型客車が忘れられなくて、必死に撮影しました。
今は、廃駅も多く浜坂と鳥取間は、本数も少なく、特急も浜坂折り返しで、もう鉄道の時代は終わってしまったみたいですね。
'85年~’86年にもう残り少なっていた旧客をおいかけて、山陰線詣でを繰り返していた頃を思い出しました。あれから、もう四半世紀が過ぎ、まだ若いと思っていたのに気がついたら、齢五十を過ぎ、すっかりおじさんになってしまいました。貴重な動画を見せていただき、ありがとうございました。
メッセージありがとうございます。
私も同じです。まだ若と思っています。この動画を撮影して、もうこんなに月日が立つなんて時の流れは速いものです。
下市駅が実家の最寄り駅でもあり、非常に懐かしいです。昔は下市と米子間の各停がありましたが、今は快速も通過する駅になってしまいました。私も高校生までは汽車に乗ってましたが、今は山陰道などもできて車を利用してしまっています。懐かしい映像と音をありがとうございます。
メッセージありがとうございます。
今は、車の方が便利ですからね。
道路は、どんどん進化するのに、鉄道は、明治が大正か分かりませんが、開通当時のまま。
これじゃー、時代に遅れてしまって、利用できませんよね。
昔、こちらの筑豊本線でも、DD51牽引旧型客車が、若松ー原田 で走っておりました。
駅で停車すると、スチーム暖房の湯気が客車から立ち上り、風情があったのを記憶しています。
また、すりガラスの電球照明も
最高にすてきでした。当時のことをおもいだしました。
メッセージありがとうございます。
昔。
そう、もう昔話になってしまったのですね。
でも、今の鉄道は、今の時代にそぐわなくなりつつあると思います。
車両は、どんどんすぴーどを出せる車両になってきている反面、線路は昔のまま。
道路は、バイパスや高速がどんどんできつ一方、鉄道は昔のまま。
鉄道も、もっと高速で走れるようにしてほしいですね。
今の田舎では、車で行った方が速い・・・のです。
そうですね。僕も、日本の鉄道は、考え方を変えることが大切だと思います。鉄道は人々が利用するものであるがゆえに、人にとの今と昔のライフスタイルなどを考察して、鉄道システムを基本から構築しなおすことが肝要かもですね。
みんな正社員で、みんな帰宅したらTVを見ていて、昼間に働いているひとが多くて、趣味の種類も少なかった。そういう昔にくらべて、今の人の行動は実に多種多様、活動する時間も、収入も働き方への考え方さえも、異なります。
社会そのものが、すでに昔とは違う線路の上を走っている気がします。鉄道システムに、いろんなベクトルを考えてみて多彩なサービスおwやってみてはどうなのかと思います。
運行時間帯、軽量高速化、低速で充実娯楽化、
小型新型路線、、、
車では絶対に味わえない魅力が鉄道にはありますよね。車で行くと日常の先にある単なる遠い場所なのが、鉄道で行って駅に降りたらなぜか異次元に来たような感覚が、僕には昔からあります。
鉄道も魅力に触れたくても、触れれない悲しき日常。
特に路面電車には憧れがあります。あれが復活してほしいです。電車は架線の設置に後退な感じを受けますから、水素やハイブリットで走る路面列車なるものなどが、できたらステキだなって思いますね。そして都市部から車を減らし都市中心部の外周に車のパーキングや貸し自転車場をつくるなど、、地下鉄は外が見えないので単に高速移動しているみたいでキライです。あの、人工的な感じが極度にする、音が、すきではありません。
長くなりました。鉄道大好きです。
良い絵ですね 何時も懐かしく拝見してます まったりとした時代を思い返しました
メッセージありがとうございます。
今の時代は、すごく綺麗な映像で録画できるけど、この時代は、これが精いっぱいだったようです。
そんな時代の列車がこのまったりとした時代なのかも知れませんね。
たいへんご丁寧なお返事をいただきありがとうございました。
鈍行列車もいいですね。
香住へ行くのに『まつかぜ』はもちろんでしたが『はまかぜ』にも、特急はなかなか乗せてもらえず急行ばかりでしたので、小学校高学年の頃になると、そののんびりとした車窓と、鈍行の風情を楽しむのに、夏休みに2度、冬休みに1度、鈍行列車で香住まで行ったことがありました。
時代的にも1982年・83年頃でしたので、ちょうどこちらの動画の頃と同じ頃でした。
私自身、子どもの頃からわりとノスタルジックなところがあり、
寝台列車で言うと14系や24系よりもだんぜん20系のほうが好きでしたし、また10系のオロネ、オロネフ、オロハネといった寝台車両のほうが好きな、ちょっと変わった鉄道好きの子どもでして(苦笑)
それだけに、旧客も茶色、いわゆる「ぶどう色」の車両のほうが好きで、わざとその車両に乗って行っていました。
というのも、青色のほうの旧客は車内がプラスチック製でしょうか、化粧板なのと電気が蛍光灯であるのに対し、ぶどう色の旧客のほうは、ニス塗の木のまま、電気も白熱灯で、あの何とも言えないぼわ~~んとした明るさと温かな風情がたまらなかったので。
先日、なくなった弁天町の『交通科学館(交通科学博物館)』にあった「マイテ49」や「マロネフ59」への憧れや、オリエント急行のような、いわゆる「ニス塗木目調」の車内が最も好きでしたので、それにより近いぶどう色の旧客のほうを選んで乗っていました。
昔のこの旧客時代というと、
福知山しかり、和田山しかり、豊岡しかり、停車すると、上下の列車の連絡や、後続の急行・特急の追い越しで、停車時間が20分・30分ってことが日常でしたし、和田山駅なんかのホームで売っている駅そば(和田山そばだったでしょうか、夜久野そばだったでしょうか)を買って、列車の中で、小学生ひとりでズルズル食べていました。
今は、ほとんどで発泡スチロールの器(鉢)に変わったみたいですが、当時は確か・・・薄っぺらい、ぺらっぺらのプラスチックでできていたように記憶しているのですが、持つと熱くて、んで冷めるのが早くて(苦笑)
いろいろそういう子どもの頃を今回も思い出しながら楽しませていただきました。
jxfds369 さん メッセージありがとうございます。
私も、旧型客車は、子どもの頃、鳥取に住んでいる時は、DF50牽引の普通列車で時々父親に乗せてもらった覚えがあります。
また、姫新線の本竜野に引っ越した頃は、C11などの、SL牽引の旧型客車で、茶色の客車しか、乗る事が出来ませんでした。
その反動もあって、中が蛍光灯の急行や気動車が当時子どもの頃は、好きでした。
その後、小学校の高学年になった時に奈良の近鉄沿線に引っ越し、旧型客車はおろか、国鉄とは無縁の生活になってしまったのです。
どんな電車も、全部ロングシート。
味気ないと言えば、味気ないのですが、その中でも、微妙な違いのある電車にやっぱり興味を抱いていました。
そして、高校になって、忘れかけていた鳥取へ旅行に行った時、再び旧型客車に乗ったのです。
子どもの頃は、こんな白熱電球の木の車内よりも、蛍光灯の近代的な車内の車両に乗りたいと思っていたが、高校時代に再び乗った旧型客車は、また別の思いがありました。それは、自分が子どもの頃に乗っていた列車。それが、まだこうやって走っている。
近鉄の近代的な電車は、走る時代に、この旧型客車も、同じ時代に走っている。それが、とっても、もう何時消えてもおかしくない。って思ったのです。
ですから、私は、高校時代には、テープレコーダーで音を録音しに行ったり、社会人になってビデオを買うなり、慌てて、この旧型客車を撮影に行ったのです。
その時の、気持ちは、「まだ、走ってて欲しい」との気持ちでいっぱいでした。
そして、撮影したのが、この映像なのです。
また、最寄りの駅での20分や30分の停車は、荷物車や、郵便車の荷物の積み下ろしなんかの、時間も必要だったからかも知れませんね。
今では鈍行の客車列車に乗りたくても乗れなくなりました。最後に12系客車の鈍行に乗車したのは1999年か2000年に由布院を訪れた際に久大線で乗ったのが最後です。1984年当時の山陰線の客車列車は約8両もつないでいたのですね。今ではワンマン運転で2両編成の気動車の運行のみ、73年に日本を離れてからは余り鉄道の旅も出来なくなり、この動画を見る度に、もう少し山陰線の旅をしておきたかったと思います。
Emilio Dandy さん メッセージありがとうございます。
本当にそうですね。今は乗りたくても乗れない。
私は、高校時代に、この旧型客車の雰囲気を何とか残せないかとテープレコーダーで走行音を録音しました。鳥取から京都までの旧型客車の音なんですが、なにぶん画像がないので、つまらないですね。いつか、画像を撮影し、現在の車窓風景ですが、音とミックスしてみたいと思っています。
当時の山陰本線の旧型客車は、10輌つないだ列車もありました。昔はDF50牽引があったのです。
今は、どちらでお住まいですか?
イタリアのテルミニー駅で撮影した鉄道なら動画が少しありますよ。
ヨーロッパってすごいですね、鉄道や車で外国へ行けるのだから。海外旅行って言う感覚が全然違いますね。
国鉄時代の鉄道ファン DF50型DL、私が1965年に家族旅行で鳥取砂丘を訪れた時は客車急行も上記のDLが牽引していました。私はDD51よりもDF50のスタイルの方が好きです。鈍行列車はSLが牽引していたと思います。今は鉄道とは無縁のホノルルに住んでいます。
Emilio Dandy さん メッセージありがとうございます。
私もDD51よりもDF50の方が好きです。
客車急行なんて懐かしいですね。あの頃は、たぶん普通列車はオハ61やオハ35で、急行列車はスハ43と、きちんと使い分けされていたように思います。子どもなりにも、同じ茶色の客車でも、急行列車を見るとさすが急行!って思いました。
私が、山陰本線で家族で出雲大社へ行った時は、途中までDF50で途中からSLに機関車を交換した覚えがあります。また、DF50とSLとが入り混じって走っていたようにも思います。
山陰線に旧型客車がこんなに走っていて、浜田~大阪などの長距離列車が走っていたとは、今となっては信じられないですね。YHでの出会いも素晴らしいですね。
+kou naka さん メッセージありがとうございます。
ほんと、今となっては信じられないです。
いや、当時でも、東京や大阪で大手私鉄などの綺麗な車両が数分毎にバンバン走っていた時代に、このような列車が走っていたと言うこと自体信じられませんでした。
当時、ここ山陰に来たら、子どもの頃にタイムスリップした懐かしい不思議な時間に浸る事が出来たのでした。
懐かしいですね。浜田住みですが、一度大阪行きの鈍行に乗って大阪まで行ってみたかったです。大人になった頃にはとっくに廃止されてました。今は味気ないステンレス製の車両になってしまいました。
メッセージありがとうございます。
今は、ステンレス製の車輛ですか?
北陸もそうですね。
でも、このステンレス製が、また未来には別の材質に変わるかも知れませんね。
プラスチックとか、カーボンファイバーとか。
豊岡駅で忘れ物のお届けご苦労様でした。
昔は、のんびりしてましたね。。
我が家も海に行って帰りがけに浮輪を汽車に忘れてしまったら、ちゃんと豊岡駅に届けられていました。。。
宮津線乗換で賑わっていた時代が懐かしいです。。
メッセージありがつございます。
へ~~~~~!
やっぱり豊岡駅に忘れた浮輪が届けられていたのですか?
偶然ですね。
宮津線乗り換えで賑わっていたのですか?
撮影は、マイカーで行くのであまり駅の中の様子は分かりませんが、でも昔は鉄道利用者は、結構多かったと思います。
国鉄時代の鉄道ファン 様
但馬の山陰本線で当時賑わっていたのは豊岡駅、和田山駅です。
宮津線方面は鈍行は豊岡で乗換でした。
丹後方面は春はチューリップ畑、夏は海と民宿で都会からも観光客がやってきて賑やかでした。(「チューリップ号の思い出」で検索してみてくださいKTRのページに行きます)
当時、学生の通学ラッシュ以前の早朝の列車は「浜のおばさん」と呼ばれる魚の行商の方が多数利用されていて(海沿いの駅からその日売る、魚担いで豊岡方面行の汽車に乗り込む!)賑わっていました。
和田山駅は播但線乗換(姫路方面)ですから関西の方ではおなじみですね。
学生さんの通学や仕事で姫路方面と行き来してる人でワイワイ大賑わいでした。
乗換待ち(結構長かった10分~1時間)がまた、楽しいんですよね。
駅のそば食べたり、売店でガム買ったり、他の列車眺めたり。。他の乗り換え客の大阪弁聞いて「へぇ都会の人ってテレビと同じ~」とか思って弟と青と黄色の樹脂のベンチにそわそわ座っていました。(ホームのベンチは豊岡は先に樹脂になった、和田山は最後まで木の格子だったはず)
山陰本線は素敵ですねぇ。。変わって欲しくない素晴らしい風景です。。
メッセージありがとうございます
山陰本線と言うと日本海が時々車窓に見える線路ですね。
町は、どんどん変わってしまったけど、田舎はまだ川原に風景があるかもしれませんね。
旧客懐かしいですね。
山陰線、よく旧客が走ってましたよね。
扉が開きっ放しで。
旧き良き時代です。
こういう列車が復活してイベントで走行する機会があったら、また乗ってみたいものです。
豊岡で再開できた女性が、この動画を見てくれたら良いのにな~と思いました。
メッセージありがとうございます。
そうなんです。
山陰本線は、昔はDF50が牽引していました。
確か、最初は茶色で、次第に今の朱色と銀色の塗装に変わって行きました。
DD54って言うのもありましたね。
今は、大井川鉄道ですね。乗るんだったら。
総括制御してないと言う事は、初期のDD51もしくは、総括制御が無いDD 51だったかもしれませんね。貴重な映像ですね。財布も渡せられてよかったですね。
メッセージありがとうございます。
詳しい事は良く分かりませんが、汽笛が2回なったので、アレ?ってな感じでした。
初期のDD51は、総括制御できないのですか?
その辺まで詳しく知らなかったのです。
財布を忘れた人とは、本当にバッタリと会いました。まあ、大体の行先を話していて聞いていたから、乗換駅くらいは分かったので、それだけが救いでした。
かろうじてデッキ全開だった列車を経験してます。
幼少期は最後尾の景色や機関車の連結部を走行中に母親の目を盗んで鑑賞していてメチャクチャ怒られていました。
機関車の次位の客車に乗るなら「ねぇ、お母さん、僕は先頭の赤いヤツに乗りたい!」って言っていたそうです。
電車、汽車、列車が区別できる時代ですね。
メッセージありがとうございます。
幼少期ってどれくらいかな?
私は、小学校の2年くらいでは、両親と一緒に満員で客室には入れなかったときは、デッキの一番後ろの扉のないところで親と一緒に線路を見ていました。
でも、私がそのころ住んでいたのは姫新線の本竜野で、山陽本線の電車がみな自動ドアでドアを閉めて走っているのに、自分の地元の汽車がドアーを開けっぱで走っているのがとってもいやで、人が居ないデッキなどは、ドアを閉めて回った事もありました。
子どもの頃ってやはり新しいものにあこがれるのですね。当時東海道新幹線が開業した頃、姫新線はC11牽引の時速35km/hくらいでの汽車でした(笑)
懐かしいいですね。私も子供の頃 京都から福知山まで時々鈍行列車乗りました
停車時間が長くて福知山までいくのに3時間ぐらい掛かったと思います
でもこの鈍行列車好きでした。旧型客車床が木でいかにも旅行してる感じでした、この間信越線の横川駅でレトロ碓氷見てきました。山陰線もう一度この鈍行列車走ってくれないかな
臨時でもいいから乗りたいです
メッセージありがとうございます。
私も、山陰本線の旧型客車が好きでした。
と言うか、子どものころよく乗ったので、あの旧型客車に乗ると、なぜか子どもの頃にタイムスリップしたような気分になるのです。
床が木、壁もニスを何重にも乗ってピカピカに光った真黒な木。天井は白熱電球。
もう山陰本線では、旧型客車は走ることはないでしょうね。動態保存されている車両も無いのでは。今は、旧型客車に乗ろうと思うと大井川鉄道に行くしかないのでは?
それが今や京都~福知山間が亀岡まで快速扱いで最速約1時間50分近くに。国鉄時代の約2時間30分~3時間のローアベレージが嘘のようです。
rhscm989 さん メッセージありがとうございます。
都会は意外と時間短縮されつつあるのですね。
田舎の方も、時間短縮されてきたとは言え、昔の旧型客車が走っていた時代は、逆に快速が走っていたのです。しかし、今は、ほとんどまあ、すべてと言ってもいいと思いますが、各駅停車なのです。そんなわけで、亀岡まで快速扱いと言うのは、うらやましいですね。
1984年(1984年) 1月22日に撮影された、冬の山陰路を走っていた、どん行列車の動画映像ですね、上手に撮影されておりますよ、国鉄(時代の鉄道ファンさん、気に入りましたよ、お見事です。
メッセージありがとうございます。
この当時は、まだまだへたな撮り方でした。でも気に入ってもらえてうれしいです。
主さん、いい人ですね。
ありがとうございます。
餘部懐かしいです😊急行だいせん20系寝台で、いまはなき大社駅まで乗りました☺がまだ暗かったため走行音のみ😭
メッセージありがとうございます。
20系のだいせん 私は乗ったことが無いのです。
20系は、九州で急行日南でのりましたが、あのジョイント音って最高ですね。
とっても静か、とっても軽やか。国鉄の気合の入った初のブルートレインですからね。
気動車以外にも50系や12系が普通に投入される中で旧型客車がよく残ってましたね。
10系寝台車が最後まで残り12系と混結列車となり愛称もついた「山陰」とか
日本最長距離の824列車とか話題は豊富だったと思います >山陰線
メッセージありがとうございます。
50系や12系は、旧型客車と比べると全体的に台数が少なかったのかもしれません。
旧型客車なんて、昔は全ての車輛が旧型客車で走っていて、輌数はとっても多かったのではないかと思います。今思えば10系客車と言うのが、今一不思議な存在ですね。旧型客車のような、新型客車でもないし、軽量客車と言っていますが・・・・・
そして、寝台や、グリーン車の12系バージョンは出来なかったし、また、寝台は旧型客車から10系客車に早く移ってしまったし、考えてみれば、やはり旧型客車の台数が圧倒的に多かったのかもしれませんね。
毎度貴重な映像を有り難うございます。
山陰本線、真冬に一度旧客ドン行乗りに行きました。
78か79年だったと思います。当時高校生で一人旅でした。
ところが、豪雪で、もう列車は忘れましたがどこかの駅で足止めをくらい、その旅は残念ながら中止となってしまいました。とにかくものすごい雪で列車の前後は埋まってしまい、いつ家(横浜市)に帰れるのか解らない状態で、車内では食料などが配布されました。蒸気暖房が暖かかったです。
今となっては良い想い出ですが、もう一度行っておけば良かったと悔やまれます。
メッセージありがとうございます。
山陰本線が雪で足止めになると言うと、多分56豪雪ではなかったのかなと思いますが、でも、私がビデオを買ったのも56豪雪の終わった春に買ったのです。
でも、今の内装が鉄でできた車両なんかよりも当時の車内が木でできていて、蒸気暖房の車両って外がどんなに吹雪でも中は暖かい感じがしますね。
私も、高校時代、テープレコーダーを持って、鳥取と京都の往復旧型客車での一人旅をしました。あの何とも言えない音、乗り心地がなんとも言えない癒される感じでした。
国鉄時代の鉄道ファン 様
ご返信有り難うございます。
私が足止めを食らったのは、54年あたりだったと思います。確か56豪雪の前にもちょっとした大雪があったんです。
仰るとおり旧客の味わいは、今の車両には無いなんというか、筆舌に尽くしがたい物が有りましたよね。匂い、灯り、音、それらが醸し出す温もりと乗り心地。
タイムマシンがあったなら、せめて1970年代に戻ってみたいです。
type4frank さん メッセージありがとうございます。
タイムマシンか!
大井川鉄道は、まだ旧型客車が走っているのでは・・・・・・
54年あたりは、けっこう雪が降っていましたね。
それに比べて、今は平野部ではもうほとんど雪が降りません。
鎧〜香住間は矢田川付近の踏切ですね!
小学生の頃に行きました(*´ω`*)
この余部鉄橋も、今はコンクリートに変わり、
どんどん歴史は変わりますが、
こうして昔の映像を見れる事に感謝しております(*゚▽゚)ノ
メッセージありがとうございます。
私は、詳しい川の名前は分かりませんが、1984年の時代に、新幹線が走っている反面、ドアーが開けっ放しの旧型客車が走っていること自体、もう近いうちになくなってしまうだろうと、思い撮影しました。
この当時、余部鉄橋が新しくなるような話はなかったと思いますが、何も思わず当たり前の風景を撮影しておいたのが、時が流れると、変わってしまったのですね。
鉄道車両だけでなく、鉄橋も、風景も。
DD51の引く旧型がまだまだ頑張った時代
いいなあ~
メッセージありがとうございます
DD51よりも古い機関車が写せなかったのが残念です。
音だけなら、あるのですが・・・・残念です。
暖房用の蒸気が郷愁をそそります。
メッセージありがとうございます。
そうですね。
山陰本線は、当時蒸気暖房で車庫から出てきた客車が駅で発車を待っている時に
カチン カチン
とドレンコックの音がなっていました。
寒い冬、列車に乗って少し体も温まる。そんな旅を思い出します。
私は乗りましたよ。大阪から浜田行き 夜行鈍行でした。お金がない時代でした。
いえいえ、お金がない・・・・こんな列車に乗れるのは、時間に余裕がある人
つまりタイムイズマネーと言う事で、別の意味で贅沢な旅をされたようですね。
最近は列車の前面展望等が気軽にRUclipsで観る事が出来るようになり有難い限りです。
同じく鉄道好きでぴちぴちの都内育ちの夫が、『手動ドア?』『開けっ放しで走行するの?』←余りに不思議そうに云うので検索してて辿り着きました。
自分はこの頃学生でまさにこの客車で豊岡迄列車通学していたものですから、
拝見でき感激感涙( ´╥_╥`)。
懐かしくて、アタリマエだった風景と音が脳裏に蘇えりました。
ちなみに夫はかなり衝撃を受けた様子で、
『まつかぜが博多迄長距離走ってたの?』とか、『トンネルが小さいよ?』だの、『下から煙が出てる!』(←水蒸気なのですが~(・з・)b。)等々、『あまりにも新鮮!』と云いながら食入る様に観ておりました。
但馬地方は雨が多く冬ともなると午後の四時前には空が薄暗く、灰色の景色が多かったような、と、久し振りに想いだしています。
いまでは貴重な映像を本当にありがとうございます。
是非登録させていただき、他の動画も拝見したいと思います、宜しくお願い致します。
おしまいになりましたが、国鉄時代の鉄道ファンさんのあたたかいお人柄、とても素敵です。
餘部から豊岡迄かなりの距離がありますのにお届けになったのですね。
忘れ物をされた女性もとても感謝されていたことでしょう。
龍々 (ryouryou) さん メッセージありがとうございます。こんな客車で通学されてた時代、都会では10輌編成の山手線のオール長椅子の電車が1分くらいの間隔で走っていましたね。
都会では、本当に想像も付かない事、もうこれは東京から見ると、外国のような話に思えるのではないかと思います。
私は、小学校1年まで、鳥取に住んでいてこんな白熱電球の客車に、よく乗りました。
たまには、白い蛍光灯の電気の付いた気動車に、乗りたいと親に行った事もあります。
でも、鳥取を離れて、奈良に住むようになって、近鉄電車の長椅子の車両ばかりに乗るようになり、この白熱電球の旧型客車が忘れられなく、高校時代には、テープレコーダーを持って走行音を録音に行きました。そして、家庭用のビデオが普及し始めて、当時高価だったけど、ビデオカメラを買って、もう何時廃止になってもおかしくない旧型客車を撮影したのが、この映像です。
今から思えば、ど素人の撮り方しているな!って思いました。
ほんと、今のフルハイビジョンから比べると画質も悪く写っているだけなんですが、そんなに喜んでいただいてうれしいです。
鉄橋の真下の食堂で食った山ウドの味が忘れられないんですよ^^; 門司発福知山行なんてのもあった記憶がw
メッセージありがとうございます
鉄橋の真下に食堂があるのですか?
私は、撮影に夢中で知りませんでした。
門司発福知山行などなど、長距離の普通列車がいっぱいありました。
本当に真下でしたからあの列車事故でなくなった可能性があります。
当時まつかぜ1号狙いで城崎に泊まってから行きました。
中学生当時、あの餘部の駅の階段をヒーフー言いながら上がった記憶がw(39年前っすw)
ここ最近は、昔の駅をモダンな駅にして、バイアフリーでエレベーターやエスカレーターを付けるのが当たり前になっていますが、新しい余部鉄橋が出来て、余部駅もリニューアルされたと思うのですが、エレベーターは、付いたのかな?
そしたら、ヒーフー言いながら上がらなくても良いですね。
最後のヤボ用のエピソードが素敵ですね。携帯電話もないあの当時、離れた人とコンタクトをとるのは大変でした。相手の行動を予測し、先回りしたり。自分は刑事かと思いながら・・・。懐かしいです。
最後のヤボ用・・・・余部でほんの5分ほど喋っただけだったのですが、ほんと上手く出会う事が出来て良かったです。
旧客普通、大阪から江原まででも5時間以上かかりました。
メッセージありがとうございます
昔から、急ぐ人は特急料金を払って特急に乗れ!
って感じだったのかもね。
それが、JRつまり民営化になって、増々加速して、出来るだけ特急に乗せて、儲けようと言う考えが強くなってきたように思います。
けいせんさん メッセージありがとうございます。
昔は、手動ドアだったのです。映画で渥美清の急行列車って言う映画を見たことがあるのですが、あの映画でも20系のブルートレインも手動ドアだったように思います。
自動ドアーが出始めたのは、東京の電車からではないでしょうか?
まあ、不正乗車・・・・あったかも知れませんが、昔はそんな悪い事をする人もすくなかったのではないのかな?
総括制御は、運転手一人で全ての動力車のコントロールをする方式なのです。
・・・・・・・って、それ普通じゃん!
って言われそう。
今は、そうなんですね。普通なんです。
でも、昔は蒸気機関車で始まった時代は、重連なんかは、各機関車に機関士が乗っていて、それぞれ、自分の機関車の動力は自分で制御していたのです。
それで、ノッチオン、ノッチオフなどの合図を汽笛の鳴らし方でやっていました。
ここでは、機関車が2台、発車のときに別々に鳴らしていたので、1台1台に機関士が乗っていて、運転していたのかなって思ったのです。
まあ、気動車や電車では当たり前の時代なんですが、気動車も、昔は別々に運転手が運転していたそうです。
電気機関車なら同じ形式の機関車2台連結すれば、性能も同じなので、総括制御もしやすいでしょうけど、電気機関車と電車を連結して、電気機関車の運転手が電気機関車と電車のモーターを回す制御になると、結構高い制御技術が要ると思います。電気機関車と電車では、車輪の直径から性能から異なるのだから。でもそんな事を国鉄はやってのけるのですから、日本の鉄道ってすごいですね。
ただ、1つだけ残念な事は、線路の幅が狭い事ですね。
***** メッセージありがとうございます。
電気機関車と電車を連結して、電気機関車の機関士がノッチを入れると電車のモーターも電気機関車のモーターを同時にまわるようにして、走っていたのが、信越本線の横川と軽井沢間の66.7パーミルの勾配区間です。普通の急行用電車は、165系って言う形式だったのですが、この電気機関車と電車を同時に制御できるようになっていた急行用電車が、169系なのです。協調運転用の電車です。特急用は、489系や189系が有名ですね。
いいお話だなあ。
ありがとうございます。
48年のころが懐かしいありがとうございました貨物のころのつていたころうれし頃ほくわのりもがだいすき返信します
のつてい頃昔からの市川です
メッセージありがとうございます。
乗り物が大好きと言う事は、飛行機もすきなのかな。
こんばんは‼︎
こんな列車、もう二度と見られないのよね囧rz
そうですね。とにかくドアーが開けっ放しと言うのは、絶対出来ない時代ですからね。
人気機関車型?乗れる?審査にて黒字列車創作?四十万人よりファン様には、機関車型牽引客車と定期型?寝台列車増設は団体型車両在る列車?、しばらく後に営業です。
?
@@HobbyVideos? さよなら話?にて?人気型?創作の話。
@@HobbyVideos廃車を?予想にて撮影を推薦。
乗りたい 鈍行列車 弁当買ってあの急須の形をしたプラスチックのお茶買って あれロウソク臭くてでも美味かった
メッセージありがとうございます。
懐かしい雰囲気が目に浮かぶようです。
プラスチックのお茶がまた、熱いのですよね。
ふたが、コップになっていて。
そんな時代もあったのですが、最近は、北陸本線の特急列車の車内販売が、なくなりました。
駅での案内では、乗車前にあらかじめお買い求め願いますだって。
ところで、駅弁は、どこから食べ始めますか?
私は、ふたの裏に付いたご飯からです。
そうですね 私もふたの裏についたご飯粒からですね あれが何故かうまい 駅弁でうまいと思ったのはやっぱり横川駅のとうげの釜飯ですね
塩見幸司 さん メッセージありがとうございます。
そうそう、あれが何故かうまいのですね。ふたの裏のご飯粒。
横川の釜飯も撮影に行って食べました。
釜を持って帰って使うのだが、火にかけると割れてしまうのです。
あれは、何か物入れにするといいかもね。
好像台鐵內灣線普通車的回憶
謝謝你的留言
現在不再有這樣的汽車了嗎?